BMW R75の機動性と耐久性で連合国側を震撼させたと言う表現で始まる、礼賛車輌紹介記事もあるが、残念ながら年表を紐解く限りこの表現は正しくない。
史実に基ずき、その生産開始年度は1941年と確認しながらも、最終生産年度は第二次大戦終戦時とされている、これはやむをえない事だろう。しかし総生産台数は19000台弱と明確に記録されている。
単純計算で確認してみよう。
総生産台数約19000台とされるR75は、第二次世界大戦終結の年1945年5月、無条件降伏をしたドイツ国内ではとても専門工場で生産が継続されていたとは思えない。
実際の工場生産は少なくとも前年で中断せざるをえないであろう状況、例えば鉄鋼材・電力・火力原等の不足、空より攻撃を受ける立場等を考慮しても1944年迄、通算で最大4年間を生産可能年数と推定するのが妥当な処だろう。これを踏まえて年間約5000台、月間にして約400台、更に一日当り13台の生産数を確認することが出来る。これは戦時下と言う状況を考えても驚異的生産実績数量である事は事実だ。
時代考察は別項で更に詳しく状況を掘り下げてみるとして、ここでは連合国軍がイタリアに上陸したのが1943年、これによるイタリアの無条件降伏後の翌1944年ノルマンデイー上陸を果たした連合国軍は、6月の上陸に引き続きその約60日後の8月には既にパリを開放している。
いかにR75の機動性をもってしても、所詮はバイクの一員、残念ながらこの流れの中で相見える事が出来たであろう約2ヶ月間で連合国側を震撼させるだけの戦闘能力は発揮していないだろうし、本来重火器戦闘能力は戦車軍団に対抗できるものではない。
(写真はドイツの友人からの寄贈品です)
Slide Show でも紹介のとおり、ズンダップ KS750も同様、ドイツのオートバイ大隊の一員として忘れてはならない存在である。
更にこれらサイドカーに限らず、バイクそのものも大量戦事投入されているが、これらは相手国側も同じ事で、映画「大脱走」でステイーブ・マックイーンの大ジャンプシーンを思い出しておられる方も多い筈だ。
余談になるがTV・映画での数々のシーンに登場する、本来R75である筈のドイツ軍サイドカーは、残念ながら他国製の模擬車輌でこれを賄っているのが現状で、とても破壊・転倒シーン数々に実際の車輌を投入できるほどの数は現存していないし、撮影用の消耗・消費車輌として投入出来るものではない。
ドイツのみならず、我が国もサイドカーを軍用として多数投入したが、戦場での戦闘で活躍した記録にはあまりお目にかかる事も無い。意外な所で、東南アジア地域で活躍した我が国の「銀輪部隊」とは、知る人ぞ知る自転車を使用した我が国軍隊の重要な特殊部隊であった。燃料を必要とせず、機械音の発生も少なく一夜にして数百キロを移動・進軍できる能力は戦時下では尚の事、有効な総合的国家戦闘能力を陰で支える結果をもたらした筈だ。
自転車だからといって、目的に合わせ必ずしも一人で乗ったとは限らないだろう。大量移動ならば、2人乗り、3人乗りで移動すれば莫大な数の兵員移送・武器輸送機具となり得る。
改めて確認するまでもない、R75には当然人力以上のエンジンが付いている、消音に対する研究も限界迄突き詰められていた。故障が無ければガソリンが続く限りは走り続ける事が出来るし、最低でも三人分の長時間使用に絶える座席も装備されている。
三人同時に飛び降りても転倒しない。
これは極めて重要な事、立って居続ける事が出来るから搭載・積載品の限定を受ける事も少ない訳だ。バイクに様にいちいち「スタンドを掛ける」必要も無い、第一非常時にそんなことにかまっていては命がいくつあっても足りないだろう。かと言え、バイク横倒しでガソリンが流れ出した地面に伏せる事は余計な危険にさらされる事になる。
回転半径も幅員3メートルもあれば十分Uターン出来る、正に戦場の「したたかなるコキブリ」と言った所だったことだろう。西かと思えば明日は東へと限られた兵員で保守できる戦線エリアは広大なものが望める。
ドイツ軍の主たる戦場は全て陸続きであったのは事実、確かに我が国のそれではなかった。このような環境で、単位消費燃料に対しての効率は非常に大きなものがあった事だろうし、今日の最新医学界で注目されている人体内臓移植問題以上に、ドミノだろうが何であれ一向に構わない、人体で言えば手足を含めた交換が簡単に出来、短時間で蘇生する設計上でのコンセプトが確立徹底されていた。この当りは別項「解体新書」で其の詳細を確認して欲しい。
時代をさかのぼって、1918年11月、ドイツは連合国に降伏し第一次世界大戦は終了した。 翌年のベルサイユ条約に調印して講和条約を締結している。
しかし1935年この条約を破棄したドイツは、1939年ポーランドへ進撃を開始し、そのまま第二次世界大戦へと突入した。最終的に連合国側のノルマンデイー上陸を許した1944年迄、極めて短期間にヨーロッパのほぼ全てを支配・管理下におき連合国に攻め入る拠点を与えなかった。この広大なエリアを要塞化するには、ドイツのオートバイはその下準備から重要な働きをした事は確かだろう。
軍用と言えば、1991年崩壊したソ連も軍用サイドカーを生産していた。ドニエプル、ウラル等がソ連の軍用サイドカーとして有名だが、隣国・中国のチョウコウも現在軍用サイドカーとしてその名を連ねている。
これらの車輌を商品として輸入する事も可能で、敵対関係にも無い我が国では全く問題が無い。実際に国内でも触ってみる事も出来る。
基本的にはドイツのR75が過去に示した戦場での有効性を引継ごうとしたものには違いないだろうが、戦後50年以上を経過した今日、筆者自身の身をもって観察・比較体感した、製品としての出来具合、性能面、予想できる耐久性等に付いては、残念ながら50年前のR75には及びも着かない、端的に言ってあまりにも御粗末な出来具合としか表現できない。
ボタン戦争の時代に最早無用の長物と化した兵機としてのR75、往年のR75をイメージして制作するために戦後には各国にコピー用現物が持ち帰られたとされている。
しかしドイツ以外でコピーされた製品を「50年前のそれより劣る」とレポートする筆者自身としても辛いものが有る。
しかしコレクターの中でもR75を所有出来ず、そのコピーの延長線上に有る中国製サイドカーを所有して、タンク・エンブレムをBMWに交換したり、無意識にR75を追い求めている姿、その現実も巷ではあまり知られていない。
コレクターの心理、現状から判断しても、軍用サイドカーと言えばBMW
R75の代名詞と誰しも認めるゆえんだろう。
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